大勢と会った日は、眠れなくなる。

こう言うべきだった、自分の話ばかりして気を遣えてなかったなんてモヤモヤと考えて。

気づけば朝。

支度して、出る。

灰色の空。

俺の網膜にだけグレーハイライトがかかったかと疑うような天気。

ほんの僅かに雨足が強まる。

自分一人の命じゃないんだぞ。なぜそう疎かにする。

掻き消される電車の肉詰め。

その上寝過ごすとは、なんで有様。

でも、おかげで少し楽になった。

そうこうしているうちに着いた。

 

何かが起きたわけじゃないのに、何も上手くいっていないように感じる朝。すでに一日が終わってしまったかのように感じる朝。

 

今日はなんとか、無事に帰る。

それができれば、今日はいい。

こういう日も受け入れて、静かに、やり過ごそう。

古典の意味について

最近、Xにて、「古典の勉強に意味なんてない(ので、廃止してしまえ)」といったツイートをよく見る。

 

それ自体は昔から言われてきていたことであって、これがカンニング竹山氏の発言を取り扱ったネット記事を契機として再燃した形だ。(私はこの場で氏の真意、発言の道徳的是非、および記事の内容の真偽を判定するつもりはない)

 

これに対する反応として、しばしば見られるのが、「君には分からないんだね」などという物であったり、「春はあげもの」の面白さが分からないなどといったもの、果ては、「意味のないことに意味がある」といったものまであるが、これらはいずれも、全く有効打となって いない。

 

まず、前者の「君には分からないんだね」という突き放し型について述べる。

このような回答の問題点は、問いに真正面から答えていないことにある。

「古典に意味なんてない」という人間は、言葉の上では、古典に意味なんて「ない」と断じているが、それは同時に、もしも意味が「あるならば教えてみろ」と挑戦的に問うているのである。

このような姿勢の者に対して、上記の回答は、意味は「ある」と答えながらも、その内容については「敢えて答えない」というスタンスをとっている。このような「密教的」な回答は、聞く者をモヤモヤさせる。

「ある」というくせに、その内容を説明できないということは、それを信仰していないものにとっては、ないに等しいのである。

 

次に、「春はあげもの」の面白さが分からないというもの。

これは一応真正面から問いに回答はしているものの、根拠があまりにもショボいというものだ。論じるに値しない。次。

 

最後の「意味のないことをやることに意味がある」これは開き直り型である。

はっきり言って、このように開き直られたところで、兎跳びをしていた昭和な価値観、あるいは、誰もその意味を考えず、ただ昔から続けられてきたから続けた座高のような、古き悪き因習、思考停止の表れとしか映らないであろう。

このような回答を聞いた者は、やはり古典に意味なんてなく、大人がただただ昔からやってきたことを、理由もなく(強いて言えばその理由とは「昔から続けてきたから」)続けたいだけなのだと、失望するほかない。

 

さて、それでは、実際のところ、古典にはどのような意味があるのだろう。

普遍的な価値として説明することはかなり難しいのだが、古典の言葉が、人生のふとした瞬間に寄り添うことがあるというものだ。

転換期に差し掛かった際、古典の言葉が、個々人の人生において、助けとなることがある。

そのように、類型化されたステージにおいて効果を発揮するのでなく、あらゆる個々人の固有の人生の場面場面においてクリティカルな効果を発揮する、そのような懐の深さこそ、古典の価値なのであろう。

時間の審査に耐える作品は、審美眼のある多くのものの琴線に触れる、普遍的な価値を備え持ち合わせている。

強いて言えば、学校で古典を学ぶ価値とは、そのような作品と向き合う体力を養うことではないだろうか。とはいえ、古典が翻訳されて読めるのに対し、日本の学校で学ぶ古典といえばすべて古文漢文であり、言語の要素がかなり大きいことは曲者だが。まぁそれはいずれ論じる。その辺は、今日はご容赦願いたい。

とはいえ、個々人が、その時間に「意味がない」とみなして拒絶することを私は否定しない。どうせ大半の凡夫は、時代の流れに身を任せ、流行り物に興じ、真に価値があるものには見向きもせずに生きていくのだから。まぁ、否定しないが、一度きりの人生、古典に触れてみることも悪くないのではないか、とは思う。

さらに言えば、もっと大切なこと(ウケのいい言葉で言い換えれば、人生の役に立つ「スキル」を身につけるために必要なことは)、古典をなぜ学ぶのか、自分なりの答えを出すことではないだろうか。

おそらく、「古典に意味なんてない」という者の気持ちを察するに、彼らは、おおかた、自分がやりたいわけではないのに勉強をやらなければならず、そこで古典が科目に含まれており、面倒だ、難しい、嫌だ、と思っているのだろう。

やりたくないこと(就活)をやることが社会通念となっており、それをやらなければならず辛かった私としては、彼らのそのような気持ちには大いに同情すべきところがあるが、やりたくないことがあるからといって、それを「意味がない」といって頭ごなしに否定することもまた、価値のない答えを返すバカな大人たちと同じように、程度の低い行いだ。

「自分が嫌なこと」と、「意味がないこと」の区別はつけたほうがいい。

意味がないと信じるならば、やらずに済むようにすればいい。あるいは、最低限こなして耐え抜けばよいだろう。

 

そんな彼らも許容する懐の深さが、古典にはあると思うが、そのありがたみを彼らが感じることがあるかどうかは、彼らが歳を重ねてみなければ分からない。

 

ではでは。

 

補足、本論における「意味」は「価値」と読み替えることもできるだろう。

 

以上

次回予告

次回の記事は、結婚について書こうと思っている。

というより、すでに手をつけ始めている。

現在、下書きの文字数は3,841文字。

私の現状の思考レベルで考えうることを、なるべく余すところなく、このブログを読んでくださっている皆さんに披歴したいと思う。

キーワードは、ショーペンハウアープラトン、現実、欲望、成功などなどになりそうだ。

久々に長文を書いてみてわかったが、書くことは大変である。

頭ではシンプルに組み立てて説明がつくことも、いざ書いてみると思っていたよりも膨大になってしまう。

しかし、書くという行為はいい。

書くことで、説明するために言葉が関連をなし、より一段と高度になる。

 

その話とは関係ないし、誰とは言わんが、哲学を解説するとか言って、哲学者たちの思想の断片を抽出してライバル関係化したパッチワークを披露してドヤ顔するやつらが嫌いだ。一冊読んで、その思想と格闘して血肉にすることの方が、数億倍尊い

でも、そういうパッチワークが、誰かが興味を持つきっかけになっているかもしれないんだよな。いや、やっぱり嫌いだわ。日和んな。自分。

 

0時から下書き書いてて1時40分からこれ書いてるんで、流石に眠いわ。寝るわ。

手塚治虫すごいわ。あの人創作のためにめちゃくちゃに働いて。

僕が創作のために起きられるのは、せいぜいこのへんでしょう。

朝まで書いてもいいが、流石に早死にする予感がする。守るものが増え始めて、命が尊くなってしまった。つか昼に書けよな。若い命を無駄に削るなバカ。

完全に独り言の様相を呈してきたので、流石にまずい。

 

そろそろ寝る。バイび。

失望と愛、姿勢と尊敬

人に失望するのは、人生で最も疲れることの一つだ。

 

しばらく話した後で、お互いにこやかな雰囲気の中で、相手が、お前の言いたいことってこういうことだろ?と言って、それが皆目見当違いの話だったこと。

 

それはお前が常々考えてきたことだろ?

結局、ただの確認作業でしかないのか、と。

自分の思っていることが思想の頂点で、そこに自分以外の者は辿り着くしかないと思っているのだなと。

誰に対しても分け隔てなく接しているようでいて、実は本質的に全員を見下している。

そのくせこちらの言いたいことを理解はしていない。

 

どっと疲労感が襲ってきた。

 

疲れる。

 

別に悪い奴じゃない。素晴らしい奴だと思う。人として好きだ。

 

だが疲れた。

 

理解されないということが、こんなにも困憊させるものだとは知らなかった。

というよりも、はなから理解する気がないということに疲れた。

別に理解してもらえないことが辛いのではない。蔑ろにされていたという事実が辛いのだ。

 

対話をする気がないということを感じるのが辛いのだ。

 

相手は常々考えてきたこと、すなわちたどり着いた思想があり、それが世界の全てだと思っており、あとは他の人がそこに辿り着くだけでしかないと考えている。

彼にとっては、私を自分と同じレベルだと認めているということなのだろう。きっとリスペクトを持ってくれているのだろう。

しかし、それは違うんだよ。

絶対に正しい思想があってそこに辿り着く、そんなものではないと思うんだ。

 

どちらが正しいというものでもないんだ。

ただ、理解して、考えてくれればそれでいいんだ。

 

人に期待しすぎだと言って、俺は、そんなことはないよ、不良だって理解できるはずさと言っていたけど、君がその期待外れの第一人者になってしまうとは。

 

理解できるかどうかは賢さじゃない。

わかり合おうとする姿勢があるかどうかだと思う。

 

理解されないかもしれない、対話が成り立たないかもしれない(あるいは表面的に成り立っているように見えて訴求的に失望させられるかもしれない)、そんなことを恐れる必要がない相手を、私はきっと、心の底から尊敬できるのだな。

Twitterと炎上について-それって本当に問題ですか?-

(まえがき)

途中までしか書いてないけど一旦公開!

公開してから少しずつ編集しちゃう。

(まえがきおわり)

 

前回の内容を妻に話したら「世の中には行事に参加してもそこでなにをするかはどうでもよくて、皆と楽しみたいと考えている人がいる。他方あなたは行事に参加するとき、その行事自体を楽しみたいと思う。だからそこでの行事が楽しくなければ、なんだか満足できないと感じてしまう。そういう違いじゃない?」と。

そう言われてハッとした。

自分は背景にある人間性を捨象して、思考プロセスの一類型として捉えていたが、確かにそもそも思考プロセスの傾向をもたらすのは当人の性格である。そこに意識を獲得できたという点で、すごくありがたいと感じた。

 

ここからが今回の話。

それって本当に問題ですか?と思うことがあるのだ。

最近X(旧Twitter)(←この表現一度使ってみたかったんだよね)で、ママ界隈の専業主婦がスペースで、なぜAV女優がキラキラした職業の代表になりたがるのかとか、娘をAV女優にしないためにはみたいなことを話し、それをみた人が怒りを吐露してある種の炎上状態になったらしい。

 

という話を妻から聞き(細かい点は間違っているかもしれないが)思ったこと。

 

そもそもそれって問題ですか?

 

私からすれば、論点設定が間違っている、いや、それを問題だと指摘して論争の火種にすること自体が的外れというか、お門違いというか、見当違いだと思うのだ。

 

なぜおかしいのかという理由を説明するために、比較対象として卑近な例を挙げよう。

 

ある日、時間を潰すために喫茶店に入る。

コーヒーを受け取って席につき、席に肘をついてスマートフォンの画面をスクロールしながら過ごしていると、近くの席から女性たちの声が聞こえてくる。

どうやらママ友同士の会話のようだ。

「最近娘が生まれて色々考えるようになったの。娘には、将来ちゃんとした職業についてほしいなって。別に束縛したいわけじゃないんだけどさ?AV女優とかには、絶対になってほしくないなーって思うわけ。」

「わかるー。世間から蔑まれるような職業だしねー。娘をAV女優にしないためにあたしたちにできることってないかな?」

最近娘が生まれたようだ。そして娘をAV女優にしたくないらしい。

 

・・・・・・・・

 

これで終わりだ。

娘を持つ父親は当然として、たとえ独り身の男性などであっても、「まぁ、娘がAV女優になったらいやだと思う人はいるよな。」「俺はお世話になってるけど。」と思って終わるだけだろう。「娘を持つ母親ならそう思っても当然か」とまで思えれば合格。

 

このように、同じことを話しているのを現実世界で見かけたとしたら「主婦同士がなんかいってらー。どーでもいー。」で終わることなのである。

 

これがTwitter上ではどうなるか。(もうめんどいからTwitterって呼ぶね。イーロンごめんね。)

 

「主婦が差別発言をしている!!けしからん!!絶対許すな!処せ!!!」

となるのである。

 

なぜなのか??

 

先ほどお見せした現実の事例とTwitterの事例、どちらも主婦同士が話しているのを、ある人が聞いたと言うのは同じである。

 

しかし現実では「どーでもいーやー」と黙殺、あるいはなんなら共感すら覚えるのに対し、Twitter上では「断固許すまじ!非難しろ!」という態度をとってしまう。

 

これはおそらく、Twitterという環境の特殊性がそうさせるのである。

 

Twitter上に存在する情報には、身体性は存在しない。

誰かが肉体を通じて発した言葉ではなく、「○○という情報が画面に表示されている」という単なるデータでしかない。

ゆえに、ママ友同士がスペースで発言したとしても、人はそれを単なる井戸端会議として捉えることはしない。

そこではママ友たちの井戸端会議的性質は捨象され、ただ、女性たちが「娘をAV女優にしないためにはどうすればいいか。」ということをしきりに口にしたという情報だけが存在することとなる。

 

その情報に対して、人はけしからん!とブチギレるのである。

そこにあるのは生身の人間相手ではなく、情報と取っ組み合いしている姿、まさに暖簾に腕押しである。

 

情報の程度としては単なる主婦の戯言として無視すれば足りる程度のものであることに変わりはないのに、情報の発信における肉体性が捨象されて、情報だけが表示されたものを目にすると、人はその情報の善悪を過剰に重視し、悪に属する情報を集団で排斥しようと試みる。

集団で、と述べたが、これが炎上というものである。(炎上というものは必ずしも集団ではなく、個々人の行動の連鎖反応によって生じるものであり、それが蓄積した結果、集団化した様相を呈して見えるだけであると考えているが、それについては後述する。)

炎上に関しては、一般にリスク管理力の無さがいわれるが、この度のことに関して母親たちを責めるのは酷というものであろう。

おそらく本人たちにとっては、会話の性質は井戸端会議と変わりないのである。

近所の人が二人三人と出くわして話しているうちに、ちらほらと集まってきて盛り上がりを呈する。そのようなものでしかない。(私は田舎の生まれだが、私が幼いとき、近所のおばさんたちがそのように談笑されている光景がよく見られた。)

このように意識のうえでは井戸端会議でしかないものが、拡声器で全国放送されているようなものである。

とはいえ、「拡声器で全国放送されるようなものである」という事実を認識していなかった点において、主婦たちはリスク管理能力が低かったということができよう。しかしそれは情報の発信方法に関する話にすぎない。

もう一点、主婦たちが至らなかった点として(こちらがより深い原因である)、倫理観への配慮不足の話が必要であるのだが、炎上の構造に関わる話であるので、併せて後述する(「配慮不足」という言葉を使ったが、これは非があるという話ではない。むしろ、いかなる情報発信も「配慮不足」にならざるを得ないのである。)。

 

さて、話を戻そう。

ツイートを見て、けしからん!と感じてその感情をタップして呟くわけだが、この受け手の感情はどのようにして生まれてくるのだろうか?

感情なんてその情報をみて頭で解釈して生まれてくる、すなわち受け手自身の頭の中から生まれるものだろうと思われるだろうが、わざわざ「どのようにして」と疑問を挙げたということは、私はそうではないと考えているということである。

そもそも、ツイートの閲覧者が感じる「けしからん」という感情それ自体も、その受け取り手自身の自然な感情ではなく、誰かからそのように受け取ることを強いられた結果である可能性すらあると思うのだ。

これは消費社会を論じた近年の本には当然のように書かれていることだそうだが、現代消費社会においては、需要と供給の関係に関して、従来の古典的経済モデルとの逆転現象が生じているという。古典的な経済学モデルでは、「モノが欲しい」という需要が先にあって、それを供給者が察知してモノを作り供給する、すなわち、需要が先行し、それを後追いする形で供給が生じるという関係性を想定していた。しかし、現代消費社会においてはもはやそのような関係性はレアである。つまり、「モノがほしい」とった消費者の需要を察知して供給者がそのモノを作り販売するような古典的な経済学が想定するモデルではなく、「このモノを売りたい」という供給者の都合があり、そのモノを売るために消費者に対して広告を打ち、「あなたがほしいものはこれですよ」と暗示をかけ、欲しいと思わせる。すなわち、供給が先行し、その供給を満たすための需要を供給者側が創出するというのだ。

 

私はこれと同じような現象が、Twitter上でも頻繁に起きていると考える。

すなわち、「本来自分の感情ではない外部由来の感情を、自分の感情であると錯覚する」ということが、

 

厳密にはパラレルではないが、供給されるモノを「ツイート」需要を「受け手の受け取り方」と読み替えよう。

そして古典的な経済学のモデルになぞらえれば、古典的な「ツイート」と「受け手の受け取り方」の関係は、ある「ツイート」を見たときに、受け手はそのツイートを見て自らの頭で考えて「受け取り方」を構成するといったものだ。

しかしTwitterでは実際には受け手はこのようにツイートを受け取るわけではないと私は思う。むしろしばしば起きているのは、以下のような現象だ。

まず、ある人があるツイートの「受け取り方」を創出し「このように受け取るべきですよー」という受け取り方とともにそのツイートを他の人に示す。それを見た人は、その人が示した「受け取り方」を見て、そのツイートの意味をその人の「受け取り方」と同じ受け取り方で受け取る(便宜的にツイートといったが、Twitter上の情報という程度に広く捉えてほしい)。

抽象的な話になってしまったが、要するにここで行われているのは引用リツイートである。

ママ界隈の人たちがスペースで「娘をAV女優にしないためには」という旨の話し合いをした。その情報を知った人が、その情報と共に、「なんてけしからんのだ!職業差別だ!」といった旨を呟く。そしてその呟きを見た人が、けしからん!と思い、また拡散する。

このような過程である。

Twitterの炎上というのは、ミクロな過程の連鎖反応であると思う。ある情報を見た人が、それをけしからんと思い、他の人に広める。それを見た人が、またけしからんと判断し、他の人に広める。その情報と自分の個々人の判断の連鎖反応である。

少し脇道にそれてしまったが、引用リツイートの弊害は、それを見る人が、その元ツイートに対する先入観を持ってしまうことにある。

この場合には、その人はその元ツイートを見て自分の頭で考える過程を経ず、ただ他人が示し感情を自分の感情として発露させているにすぎない。

 

そこに見られるのは、対面でのコミュニケーションにおいて存在した、情報の背後にある、発言者たる人間が存在することとその人間の性質に対する考慮の喪失である。

 

反論に、他の職業はどうなんだ!などというものがあったのも興味深い

 

ある種のTwitter仕草のようなものが見受けられる。

本来であれば、情報を効率的に取捨選択して予測可能性を高め、安定した生活を可能にするために身につけた能力であったはずだ。しかしその能力のせいで、

 

もちろん、ママたちが全く悪くないとは言わない。

不法侵入が犯罪だからといって、都会で家に鍵もかけずに家を出る人や、窃盗が犯罪だからといって自転車に鍵もかけずに繁華街に置き去りにする人はいないだろう。

被害を被る可能性を最小限にすることは当然行うべきことだからだ。他者の善意に期待しすぎているという点でナイーブすぎる。

そういった点で、スペースを行ったママたちにも、リスク管理の甘さがあったともいえるだろう。

しかし無理もあるまい。

先にも話したように、Twitter上の炎上は個別の連鎖反応によって起きるものである。そして、から、「けしからん」と思う倫理観は、一人が頭を働かせて想定することができる倫理観の程度は知れている。

自分がつぶやく一言が、誰にとっての火種となるかを全て捉えきれなくても仕方のないことなのである。

 

iPhoneで現在3160文字。やばい。

今日は時間がないので一旦この辺で終わる。

下書きのまま完成形にして公開してもいいのだけどいつになるのかわからない&下書きのままだと結局更新しない可能性が高い

ので公開しちゃう。

不完全だけど許してね。つか誰も見てない定期。

どうせこのブログに辿り着く人は全員就活で悩んだINFPで、Googleで「INFP 就活」で検索して2番目くらいに出てくる(なぜ。すごい。)「INFPと就活」をクリックしてこのブログに辿り着き、その記事しか見ずに去っていく。なぜならINFPが就活に悩むのはなぜかということしか欲しくないから。

だから誰も読んでないしな!ぐはは。

人の目に触れにくい場所で長文をかけるから、はてなブログは好きなのだ。

しかもそれをわざわざ見にくる物好きだけに読んでもらえる(と信じている。知らんけど)

ほな

 

斜に構えていたので、メタ認知して類型化してみた

スポーツ観戦を楽しむ気持ちがわからない。

なんというか、一定のルールの下でランダムな駒を配置して結果を出力しているだけで、迷路の中でダンゴムシを這わせる対照実験と違わないのでは?

むしろダンゴムシの方が、ダンゴムシの生態についての法則性が発見できるだけマシかもしれない。

結局のところ、観戦する「スポーツ」を楽しんでいるのではなく、スポーツを「観戦」する行為そのものを楽しんでいるのではないだろうか。

声を出して応援し、売り子からビールを買い、勝っただの負けただの、ゴールが決まっただので盛り上がり、叫んだり、そう、叫ぶ瞬間が分かりやすく決まっている。その瞬間、同じ行為を行うことで、自己の感性が他者との関係において正当化される。

 

いや、あくまで自分はそう思うというだけの話で、きっと自分もそうなのだ。

通勤の時間をかけて本を読んだって、現実は変わりはしないし、

実務の足しにもならないことを論文まで調べて勝手に理論を組み立てて納得したって、それで仕事が早くなるわけじゃないし、

2chまとめサイトを閲覧することは何の足しにもならない、(←これは自分でも心の底からそう思う。)

そんなふうに、自分が楽しくてやってることだって、他の誰かから見れば意味がないことだと思われるんだろう。

 

ここまで書いて思ったが、スポーツそれ自体もきっと非常に魅力的なのではないだろうか。それはおそらく、個別具体的なストーリーがあるという点においてだ。

競馬にハマっていた時期があった。数多のヲタクどもと同じく、ウマ娘のアプリゲームを始めてから実際の競馬へもハマっていったタチであった。

競馬も抽象化してみればルールのもとで馬を走らせるだけのスポーツだ。

しかしそこには、数多もの人たちが勝利へとかける想いがあり、

たかか一つのレースだが、これまで紡がれてきた幾重もの歴史の上に、また一つ新たな歴史が積み重なる瞬間なのだ。

 

(20230929追記)

スポーツを観戦するということは、その歴史の積み重ねの瞬間を構成する一員になるということであり、その瞬間の語り部になるということなのだ。自己が歴史を変革する1ページとなり、それを後世に語り継ぐことができる、そのような営みに魅力を感じぬものがいようか。少々大袈裟な表現だと思われるかもしれないが、実際に観戦するということは、そのような臨場感をしばしば伴うものであると私は思う。

(202309追記ここまで)

 

だがしかしそこまで意識しているだろうか。いや、明言する必要がないほど当然のことなのだろうか。

 

二転三転して話を重ねてきたが、自分がなにをしたいのか分かってきた。

結局のところ、休みの日に外に出るのが億劫で、その億劫さの原因をスポーツのつまらなさに求めたかっただけなのだろう。

 

しかしもう恐れる必要はなかろう。

私は私の認知に介入して思考を強いるものが何であったのか知りたかったのだ。

 

スポーツそれ自体がつまらぬのではない、私のサリエンスを恐る気持ち、刺激、特に人とのコミュニケーションという法則のない刺激が私の心的態度に見直しを迫る、その不快さを恐れているだけなのだ。

原因がハッキリしたので悩む気が失せた。

根拠のある悩みであればそれでいい。

 

斜に構えて、これって面白くなくないか?とか言っているとき、もしそこに自分が参加しようとしているのであれば、そこには、何らかのサリエンスを恐れる気持ちを、別の対象それ自体の有する欠陥に帰そうとする気持ちがあるのではないかと思った。

全てがそうではなく、あくまで私の思考プロセスの一類系として。

かなりわかりにくい書き方をしているが、自分のための速記メモなので今はいいや。

 

行ってきまーす。