人に失望するのは、人生で最も疲れることの一つだ。
しばらく話した後で、お互いにこやかな雰囲気の中で、相手が、お前の言いたいことってこういうことだろ?と言って、それが皆目見当違いの話だったこと。
それはお前が常々考えてきたことだろ?
結局、ただの確認作業でしかないのか、と。
自分の思っていることが思想の頂点で、そこに自分以外の者は辿り着くしかないと思っているのだなと。
誰に対しても分け隔てなく接しているようでいて、実は本質的に全員を見下している。
そのくせこちらの言いたいことを理解はしていない。
どっと疲労感が襲ってきた。
疲れる。
別に悪い奴じゃない。素晴らしい奴だと思う。人として好きだ。
だが疲れた。
理解されないということが、こんなにも困憊させるものだとは知らなかった。
というよりも、はなから理解する気がないということに疲れた。
別に理解してもらえないことが辛いのではない。蔑ろにされていたという事実が辛いのだ。
対話をする気がないということを感じるのが辛いのだ。
相手は常々考えてきたこと、すなわちたどり着いた思想があり、それが世界の全てだと思っており、あとは他の人がそこに辿り着くだけでしかないと考えている。
彼にとっては、私を自分と同じレベルだと認めているということなのだろう。きっとリスペクトを持ってくれているのだろう。
しかし、それは違うんだよ。
絶対に正しい思想があってそこに辿り着く、そんなものではないと思うんだ。
どちらが正しいというものでもないんだ。
ただ、理解して、考えてくれればそれでいいんだ。
人に期待しすぎだと言って、俺は、そんなことはないよ、不良だって理解できるはずさと言っていたけど、君がその期待外れの第一人者になってしまうとは。
理解できるかどうかは賢さじゃない。
わかり合おうとする姿勢があるかどうかだと思う。
理解されないかもしれない、対話が成り立たないかもしれない(あるいは表面的に成り立っているように見えて訴求的に失望させられるかもしれない)、そんなことを恐れる必要がない相手を、私はきっと、心の底から尊敬できるのだな。