古典の意味について

最近、Xにて、「古典の勉強に意味なんてない(ので、廃止してしまえ)」といったツイートをよく見る。

 

それ自体は昔から言われてきていたことであって、これがカンニング竹山氏の発言を取り扱ったネット記事を契機として再燃した形だ。(私はこの場で氏の真意、発言の道徳的是非、および記事の内容の真偽を判定するつもりはない)

 

これに対する反応として、しばしば見られるのが、「君には分からないんだね」などという物であったり、「春はあげもの」の面白さが分からないなどといったもの、果ては、「意味のないことに意味がある」といったものまであるが、これらはいずれも、全く有効打となって いない。

 

まず、前者の「君には分からないんだね」という突き放し型について述べる。

このような回答の問題点は、問いに真正面から答えていないことにある。

「古典に意味なんてない」という人間は、言葉の上では、古典に意味なんて「ない」と断じているが、それは同時に、もしも意味が「あるならば教えてみろ」と挑戦的に問うているのである。

このような姿勢の者に対して、上記の回答は、意味は「ある」と答えながらも、その内容については「敢えて答えない」というスタンスをとっている。このような「密教的」な回答は、聞く者をモヤモヤさせる。

「ある」というくせに、その内容を説明できないということは、それを信仰していないものにとっては、ないに等しいのである。

 

次に、「春はあげもの」の面白さが分からないというもの。

これは一応真正面から問いに回答はしているものの、根拠があまりにもショボいというものだ。論じるに値しない。次。

 

最後の「意味のないことをやることに意味がある」これは開き直り型である。

はっきり言って、このように開き直られたところで、兎跳びをしていた昭和な価値観、あるいは、誰もその意味を考えず、ただ昔から続けられてきたから続けた座高のような、古き悪き因習、思考停止の表れとしか映らないであろう。

このような回答を聞いた者は、やはり古典に意味なんてなく、大人がただただ昔からやってきたことを、理由もなく(強いて言えばその理由とは「昔から続けてきたから」)続けたいだけなのだと、失望するほかない。

 

さて、それでは、実際のところ、古典にはどのような意味があるのだろう。

普遍的な価値として説明することはかなり難しいのだが、古典の言葉が、人生のふとした瞬間に寄り添うことがあるというものだ。

転換期に差し掛かった際、古典の言葉が、個々人の人生において、助けとなることがある。

そのように、類型化されたステージにおいて効果を発揮するのでなく、あらゆる個々人の固有の人生の場面場面においてクリティカルな効果を発揮する、そのような懐の深さこそ、古典の価値なのであろう。

時間の審査に耐える作品は、審美眼のある多くのものの琴線に触れる、普遍的な価値を備え持ち合わせている。

強いて言えば、学校で古典を学ぶ価値とは、そのような作品と向き合う体力を養うことではないだろうか。とはいえ、古典が翻訳されて読めるのに対し、日本の学校で学ぶ古典といえばすべて古文漢文であり、言語の要素がかなり大きいことは曲者だが。まぁそれはいずれ論じる。その辺は、今日はご容赦願いたい。

とはいえ、個々人が、その時間に「意味がない」とみなして拒絶することを私は否定しない。どうせ大半の凡夫は、時代の流れに身を任せ、流行り物に興じ、真に価値があるものには見向きもせずに生きていくのだから。まぁ、否定しないが、一度きりの人生、古典に触れてみることも悪くないのではないか、とは思う。

さらに言えば、もっと大切なこと(ウケのいい言葉で言い換えれば、人生の役に立つ「スキル」を身につけるために必要なことは)、古典をなぜ学ぶのか、自分なりの答えを出すことではないだろうか。

おそらく、「古典に意味なんてない」という者の気持ちを察するに、彼らは、おおかた、自分がやりたいわけではないのに勉強をやらなければならず、そこで古典が科目に含まれており、面倒だ、難しい、嫌だ、と思っているのだろう。

やりたくないこと(就活)をやることが社会通念となっており、それをやらなければならず辛かった私としては、彼らのそのような気持ちには大いに同情すべきところがあるが、やりたくないことがあるからといって、それを「意味がない」といって頭ごなしに否定することもまた、価値のない答えを返すバカな大人たちと同じように、程度の低い行いだ。

「自分が嫌なこと」と、「意味がないこと」の区別はつけたほうがいい。

意味がないと信じるならば、やらずに済むようにすればいい。あるいは、最低限こなして耐え抜けばよいだろう。

 

そんな彼らも許容する懐の深さが、古典にはあると思うが、そのありがたみを彼らが感じることがあるかどうかは、彼らが歳を重ねてみなければ分からない。

 

ではでは。

 

補足、本論における「意味」は「価値」と読み替えることもできるだろう。

 

以上