Twitterと炎上について-それって本当に問題ですか?-

(まえがき)

途中までしか書いてないけど一旦公開!

公開してから少しずつ編集しちゃう。

(まえがきおわり)

 

前回の内容を妻に話したら「世の中には行事に参加してもそこでなにをするかはどうでもよくて、皆と楽しみたいと考えている人がいる。他方あなたは行事に参加するとき、その行事自体を楽しみたいと思う。だからそこでの行事が楽しくなければ、なんだか満足できないと感じてしまう。そういう違いじゃない?」と。

そう言われてハッとした。

自分は背景にある人間性を捨象して、思考プロセスの一類型として捉えていたが、確かにそもそも思考プロセスの傾向をもたらすのは当人の性格である。そこに意識を獲得できたという点で、すごくありがたいと感じた。

 

ここからが今回の話。

それって本当に問題ですか?と思うことがあるのだ。

最近X(旧Twitter)(←この表現一度使ってみたかったんだよね)で、ママ界隈の専業主婦がスペースで、なぜAV女優がキラキラした職業の代表になりたがるのかとか、娘をAV女優にしないためにはみたいなことを話し、それをみた人が怒りを吐露してある種の炎上状態になったらしい。

 

という話を妻から聞き(細かい点は間違っているかもしれないが)思ったこと。

 

そもそもそれって問題ですか?

 

私からすれば、論点設定が間違っている、いや、それを問題だと指摘して論争の火種にすること自体が的外れというか、お門違いというか、見当違いだと思うのだ。

 

なぜおかしいのかという理由を説明するために、比較対象として卑近な例を挙げよう。

 

ある日、時間を潰すために喫茶店に入る。

コーヒーを受け取って席につき、席に肘をついてスマートフォンの画面をスクロールしながら過ごしていると、近くの席から女性たちの声が聞こえてくる。

どうやらママ友同士の会話のようだ。

「最近娘が生まれて色々考えるようになったの。娘には、将来ちゃんとした職業についてほしいなって。別に束縛したいわけじゃないんだけどさ?AV女優とかには、絶対になってほしくないなーって思うわけ。」

「わかるー。世間から蔑まれるような職業だしねー。娘をAV女優にしないためにあたしたちにできることってないかな?」

最近娘が生まれたようだ。そして娘をAV女優にしたくないらしい。

 

・・・・・・・・

 

これで終わりだ。

娘を持つ父親は当然として、たとえ独り身の男性などであっても、「まぁ、娘がAV女優になったらいやだと思う人はいるよな。」「俺はお世話になってるけど。」と思って終わるだけだろう。「娘を持つ母親ならそう思っても当然か」とまで思えれば合格。

 

このように、同じことを話しているのを現実世界で見かけたとしたら「主婦同士がなんかいってらー。どーでもいー。」で終わることなのである。

 

これがTwitter上ではどうなるか。(もうめんどいからTwitterって呼ぶね。イーロンごめんね。)

 

「主婦が差別発言をしている!!けしからん!!絶対許すな!処せ!!!」

となるのである。

 

なぜなのか??

 

先ほどお見せした現実の事例とTwitterの事例、どちらも主婦同士が話しているのを、ある人が聞いたと言うのは同じである。

 

しかし現実では「どーでもいーやー」と黙殺、あるいはなんなら共感すら覚えるのに対し、Twitter上では「断固許すまじ!非難しろ!」という態度をとってしまう。

 

これはおそらく、Twitterという環境の特殊性がそうさせるのである。

 

Twitter上に存在する情報には、身体性は存在しない。

誰かが肉体を通じて発した言葉ではなく、「○○という情報が画面に表示されている」という単なるデータでしかない。

ゆえに、ママ友同士がスペースで発言したとしても、人はそれを単なる井戸端会議として捉えることはしない。

そこではママ友たちの井戸端会議的性質は捨象され、ただ、女性たちが「娘をAV女優にしないためにはどうすればいいか。」ということをしきりに口にしたという情報だけが存在することとなる。

 

その情報に対して、人はけしからん!とブチギレるのである。

そこにあるのは生身の人間相手ではなく、情報と取っ組み合いしている姿、まさに暖簾に腕押しである。

 

情報の程度としては単なる主婦の戯言として無視すれば足りる程度のものであることに変わりはないのに、情報の発信における肉体性が捨象されて、情報だけが表示されたものを目にすると、人はその情報の善悪を過剰に重視し、悪に属する情報を集団で排斥しようと試みる。

集団で、と述べたが、これが炎上というものである。(炎上というものは必ずしも集団ではなく、個々人の行動の連鎖反応によって生じるものであり、それが蓄積した結果、集団化した様相を呈して見えるだけであると考えているが、それについては後述する。)

炎上に関しては、一般にリスク管理力の無さがいわれるが、この度のことに関して母親たちを責めるのは酷というものであろう。

おそらく本人たちにとっては、会話の性質は井戸端会議と変わりないのである。

近所の人が二人三人と出くわして話しているうちに、ちらほらと集まってきて盛り上がりを呈する。そのようなものでしかない。(私は田舎の生まれだが、私が幼いとき、近所のおばさんたちがそのように談笑されている光景がよく見られた。)

このように意識のうえでは井戸端会議でしかないものが、拡声器で全国放送されているようなものである。

とはいえ、「拡声器で全国放送されるようなものである」という事実を認識していなかった点において、主婦たちはリスク管理能力が低かったということができよう。しかしそれは情報の発信方法に関する話にすぎない。

もう一点、主婦たちが至らなかった点として(こちらがより深い原因である)、倫理観への配慮不足の話が必要であるのだが、炎上の構造に関わる話であるので、併せて後述する(「配慮不足」という言葉を使ったが、これは非があるという話ではない。むしろ、いかなる情報発信も「配慮不足」にならざるを得ないのである。)。

 

さて、話を戻そう。

ツイートを見て、けしからん!と感じてその感情をタップして呟くわけだが、この受け手の感情はどのようにして生まれてくるのだろうか?

感情なんてその情報をみて頭で解釈して生まれてくる、すなわち受け手自身の頭の中から生まれるものだろうと思われるだろうが、わざわざ「どのようにして」と疑問を挙げたということは、私はそうではないと考えているということである。

そもそも、ツイートの閲覧者が感じる「けしからん」という感情それ自体も、その受け取り手自身の自然な感情ではなく、誰かからそのように受け取ることを強いられた結果である可能性すらあると思うのだ。

これは消費社会を論じた近年の本には当然のように書かれていることだそうだが、現代消費社会においては、需要と供給の関係に関して、従来の古典的経済モデルとの逆転現象が生じているという。古典的な経済学モデルでは、「モノが欲しい」という需要が先にあって、それを供給者が察知してモノを作り供給する、すなわち、需要が先行し、それを後追いする形で供給が生じるという関係性を想定していた。しかし、現代消費社会においてはもはやそのような関係性はレアである。つまり、「モノがほしい」とった消費者の需要を察知して供給者がそのモノを作り販売するような古典的な経済学が想定するモデルではなく、「このモノを売りたい」という供給者の都合があり、そのモノを売るために消費者に対して広告を打ち、「あなたがほしいものはこれですよ」と暗示をかけ、欲しいと思わせる。すなわち、供給が先行し、その供給を満たすための需要を供給者側が創出するというのだ。

 

私はこれと同じような現象が、Twitter上でも頻繁に起きていると考える。

すなわち、「本来自分の感情ではない外部由来の感情を、自分の感情であると錯覚する」ということが、

 

厳密にはパラレルではないが、供給されるモノを「ツイート」需要を「受け手の受け取り方」と読み替えよう。

そして古典的な経済学のモデルになぞらえれば、古典的な「ツイート」と「受け手の受け取り方」の関係は、ある「ツイート」を見たときに、受け手はそのツイートを見て自らの頭で考えて「受け取り方」を構成するといったものだ。

しかしTwitterでは実際には受け手はこのようにツイートを受け取るわけではないと私は思う。むしろしばしば起きているのは、以下のような現象だ。

まず、ある人があるツイートの「受け取り方」を創出し「このように受け取るべきですよー」という受け取り方とともにそのツイートを他の人に示す。それを見た人は、その人が示した「受け取り方」を見て、そのツイートの意味をその人の「受け取り方」と同じ受け取り方で受け取る(便宜的にツイートといったが、Twitter上の情報という程度に広く捉えてほしい)。

抽象的な話になってしまったが、要するにここで行われているのは引用リツイートである。

ママ界隈の人たちがスペースで「娘をAV女優にしないためには」という旨の話し合いをした。その情報を知った人が、その情報と共に、「なんてけしからんのだ!職業差別だ!」といった旨を呟く。そしてその呟きを見た人が、けしからん!と思い、また拡散する。

このような過程である。

Twitterの炎上というのは、ミクロな過程の連鎖反応であると思う。ある情報を見た人が、それをけしからんと思い、他の人に広める。それを見た人が、またけしからんと判断し、他の人に広める。その情報と自分の個々人の判断の連鎖反応である。

少し脇道にそれてしまったが、引用リツイートの弊害は、それを見る人が、その元ツイートに対する先入観を持ってしまうことにある。

この場合には、その人はその元ツイートを見て自分の頭で考える過程を経ず、ただ他人が示し感情を自分の感情として発露させているにすぎない。

 

そこに見られるのは、対面でのコミュニケーションにおいて存在した、情報の背後にある、発言者たる人間が存在することとその人間の性質に対する考慮の喪失である。

 

反論に、他の職業はどうなんだ!などというものがあったのも興味深い

 

ある種のTwitter仕草のようなものが見受けられる。

本来であれば、情報を効率的に取捨選択して予測可能性を高め、安定した生活を可能にするために身につけた能力であったはずだ。しかしその能力のせいで、

 

もちろん、ママたちが全く悪くないとは言わない。

不法侵入が犯罪だからといって、都会で家に鍵もかけずに家を出る人や、窃盗が犯罪だからといって自転車に鍵もかけずに繁華街に置き去りにする人はいないだろう。

被害を被る可能性を最小限にすることは当然行うべきことだからだ。他者の善意に期待しすぎているという点でナイーブすぎる。

そういった点で、スペースを行ったママたちにも、リスク管理の甘さがあったともいえるだろう。

しかし無理もあるまい。

先にも話したように、Twitter上の炎上は個別の連鎖反応によって起きるものである。そして、から、「けしからん」と思う倫理観は、一人が頭を働かせて想定することができる倫理観の程度は知れている。

自分がつぶやく一言が、誰にとっての火種となるかを全て捉えきれなくても仕方のないことなのである。

 

iPhoneで現在3160文字。やばい。

今日は時間がないので一旦この辺で終わる。

下書きのまま完成形にして公開してもいいのだけどいつになるのかわからない&下書きのままだと結局更新しない可能性が高い

ので公開しちゃう。

不完全だけど許してね。つか誰も見てない定期。

どうせこのブログに辿り着く人は全員就活で悩んだINFPで、Googleで「INFP 就活」で検索して2番目くらいに出てくる(なぜ。すごい。)「INFPと就活」をクリックしてこのブログに辿り着き、その記事しか見ずに去っていく。なぜならINFPが就活に悩むのはなぜかということしか欲しくないから。

だから誰も読んでないしな!ぐはは。

人の目に触れにくい場所で長文をかけるから、はてなブログは好きなのだ。

しかもそれをわざわざ見にくる物好きだけに読んでもらえる(と信じている。知らんけど)

ほな