「底辺職ランキング」について思うこと

少し前のことだが、「底辺職ランキング」なるネット記事(以下、「底辺職ランキング」)が物議を醸した。

それは、ある就活情報サイトが公開した記事で、「底辺職」に該当する職業を列挙していた。そして、このような「底辺職」につかないために就活を頑張ろうと呼びかけ、自社のサービスに引き込むような内容だったと記憶している。

 

今の日本国において、表現の自由が保障されていることは周知の承知だが、それでも私は、いかなる目的であれ、正当な業務として存在する職業を、他人が貶めてはならないと考える。

社会に貢献する重要な職業、ましてやその業務内容は違法行為でもなんでもないものを見下し貶めるということは、整然と整えられた茶の間に土足で踏み入り、足蹴にして荒らしまわるような野蛮な行為である。その悪行を被り、誇りを踏み躙られる者の気持ちは、筆舌に尽くし難い。

 

しかしながら、同時に、違和感を覚えるのは、底辺職ランキングに批判的な意見を呈する人々の中に、「職業に貴賎なし」という言葉を用いる人々がいたこと______より正確に言えば、その言葉を使って、職業に貴賎はないのだから、底辺職なるものも存在しないという主張をする人々がいること______だ。

 

なぜならば、資本主義社会において、待遇の格差や労働環境などの面において、職業間に一定の優劣が生じていることもまた事実だからである。その優劣の序列において、上層と底辺が存在するとすれば、その記事に列挙されたような職業が一般的に底辺に位置することは私には事実であるように思えた。

 

誤解がないように申し上げれば、それでも、「職業に貴賎なし」はやはり真実であると私は思う。明治時代に士農工商身分制度が(建前上は)廃止され、生まれ育ちに関係なく職業を選択できるようになった(建前上は)ことが憲法で保障されている現在、職業それ自体は貴賎のないニュートラルなものだ。職業に貴賎があるならば、選択の自由も存在しないはずである。職業に貴賎がないことを前提としてこそ、職業選択の自由が成り立つはずだ。「職業選択の自由について誤った記述をしている」と法学徒から手痛い指摘を受けることを案じて戦々恐々としているが、職業選択の自由について法律論を展開することは本記事の目的ではない。あくまでも私は個人的にこう思うというスタンスを示しているだけなので、大切な法律用語を拝借してしまったことはご容赦願いたい。そもそも、優秀な法学徒は法学エリートの道からこぼれ落ちた私のような者の記事を読みにはこないだろうが。

とにかく、一方の職業は尊くて、もう一方の職業は卑しいということはないはずだ。

 

「底辺職」とされた職業は、どれも社会にとって必要不可欠な存在である

土木・建設作業員がいなければ、この世のあらゆる建物やインフラが存在しない。雨風を凌ぐ家もないし、家族との思い出の詰まったマイホームだって存在しない。立派な建築物だって、線路や電車だって存在しないから、どこにいくにも荒れた地面を歩いていくしかない。

ごみ収集スタッフがいなければ、ゴミは放置されて悪臭を放つだろう。ゴミを運搬する人がいないので、各人が処理することになる。燃やして処理するとなれば、失火による火災も頻発するだろうし、ゴミの焼ける匂いがそこらじゅうに漂って、街は快適さを失いだろう。ゴミを不当に投棄する人も増えて、衛生が悪化するだろう。コレラのような疫病が発生する可能性も高い。

保育士がいなければ、子を持つ親の多く(とりわけ女性)はその能力を発揮する機会を失い、家庭の用事に束縛されることとなるだろう。その結果、生きがいを失うこともあるだろうし、配偶者と喧嘩が絶えないかもしれない。

 

このように、どれも社会に大いに貢献している。

では、底辺職ランキングは、このような職業に就く人々を賛美する目的で書かれたものだろうか。いいや、違うだろう。

底辺職ランキングの目的は、そのタイトルの文言の過激さを以て特定の職業に対する悪意や偏見を増幅させ、リンクをクリックさせてアクセス数を稼ぐことにあることが明白である。

どんな理由があれ、他者の職業を貶めることは、全くもって言語道断である。

 

「底辺職ランキングだって、冒頭で底辺職は立派だと断っているじゃないか」という反論が飛んできそうではある(いや、多分そんな反論をする人はいないだろう、私が勝手に仮想敵を作っているだけだ)が、一応これに反論しておく。

そもそも、どの職業も社会を成り立たせているものである。底辺職だけが社会を支えているわけではない。ゆえに、記事の冒頭の底辺職が社会を支えているからリスペクトを送ろうという趣旨の文言は、特定の職業の人々を「底辺職」と称して貶めることのエクスキューズとしては機能していない

 

先にも述べたように、資本主義社会において、職業間に優劣がついていることは事実である。

大切なことは、資本主義の環境下で劣位に位置する職業に従事する人々であっても日々の衣食住に事欠くことがないように、豊かな社会を創っていくことだと思う。

 

衣食足りて礼節を知る。

お金を稼ぐために他者を貶めなければならないような職業があるとすれば、そのような仕事こそ、真の意味での「底辺職」なのではないだろうか。

 

いや、そもそも職業自体は悪くない。職業の性質どうこうが問題ではないのだ。

結局は、人間性の問題なのだ

どんな目的であれ、人を貶めてはならない。これに尽きるのだ。

 

誠に勝手ながら、今ここで「底辺職」に代わって「底辺人間」を定義させてもらう。

底辺人間[名]業務に従事する中で、利得を得ることなどを目的として、他者を貶めたり、不当な行為を行ったりする人間のこと。

 

このような人間を、私は、心の底から軽蔑する。

 

そして、あらゆる職業に従事する人々を、私は、心の底から尊敬する

 

P.S.

この記事を書くようになったきっかけは、妻に(あ、先日結婚しました。ご報告。)「底辺職がどうとかっていうけどさー、資本主義社会において待遇格差はあるし、底辺は実在するじゃん」と話したことです。あれから自分の中で思考してみて、やっぱ資本主義において待遇差は確かに存在するけど、その待遇差における「底辺」が存在するという客観的事実と、特定の職業を「底辺」と呼んで貶める主観的行為は別の問題だよなと反省したからです。

初稿では、他者を貶める行為が業務内容や利益の仕組みに内在する仕事として「底辺職」を再定義して記事を締め括った(そして、不当な輩をバッサーッと切り付ける俺様カッケエ!と悦に入った)のですが、記事を書き進めるうちに、職業の性質がどうこうというより個々人の人間性の問題じゃんと気づいて書き直した。底辺職を再定義する方が大鉈を振るうようでカッコ良くはあるのですが、結局のところ問題は、職業の性質どうこうよりも、個々人がどう行動するかという人間性にあると思い、結論部分を書き直しました。

記事の内容が一貫性を欠いているように思われるかもしれませんが、ご容赦ください。私自身、記事を書く中で「書き始めた時点ではああ思っていたけれど、確かに違う考えもできるな」と思考が深まったりして、書き始めた時点と書き終えた時点ではちょっとした別人なのです。

あくまでも私の思考の整理と覚書の目的で記しているものですので、悪しからず。

 

文体も「〜はずだ。」とか「言語道断である。」とか評論家みたいな感じになってて、「エクスキューズ」なんてカタカナ言葉まで使っちゃって、キャー、なんて恥ずかしい。未来の自分はこの記事を思い返して、ベッドにうずくまり足をジタバタさせるでしょう。

 

最後まで読んでくれてありがとうございました!

全ての読者の方々を愛してます!