眠ることは難しい。

夜になると、ベッドに入る。

当たり前のことだ。

電気を消し、ベッドに体を横たえる。

 

・・・・・・で?

 

眠れないのである。

当たり前だが、「眠る」ということは、ベッドに体を横たえることを意味しない。

ベッドに体を横たえることは、眠ることの準備にすぎない。

体を横たえた後、脳と身体が活動を休止し(これが「眠り」の開始である)、その状態を朝まで継続するということが、「眠る」ということである。

 

何が言いたいのかというと、ベッドに体を横たえた後から、脳と体が活動を休止するまでの間には、空白の時間がある。

 

私は、あの時間をどう過ごせばいいのか分からないのである。

 

ただベッドに横になり、過ごしていると、どうにも頭がおかしくなりそうになる。

 

務めて何も考えないようにすればするほど、アイデアが、浮かぶ、浮かぶ。

人生、これでいいのか。

何かもっとできることがあるんじゃないか。

今日1日をより良く過ごせたんじゃないだろうか。

とか。

こんなに眠れないなら、資格の勉強をしようか、とか。

眠らない方がいいんじゃないか、とか。も思ったり。

スマートフォン2chまとめサイトを見たりとか。

一通り終えた後で、2時か3時ごろに強烈な眠気がきて、そうして横たわる。

自由落下するように、フッ・・・と、深い深い眠りに入る。

 

そうして過ごした後、どうなるのかというと、結果、翌日の朝、顔はパンパンで、眠気に苛まれるのである。

 

 

あれやりたい、これやりたい、とか。考えることもある。

やらなければいけないこと、やりたいこと。そのための方法。いろいろ思いつく。

 

ブレーカーが落ちるように、バチんっと眠りたい。

寝まーすって、体の電源をオフにして、意識がなくなる。

どこかにスイッチが付いてないだろうかって、何度も探した。当然ない。

 

いつからだろうか。

小さい頃は、こんなに悩まず、すぐ眠れていた気がする。

 

高校生の時の自分はどうやって眠っていたのだろうか。

 

分からない。

 

分かっている。本当は、深夜1時の自分が好きなのだ。

煩わせるものから逃れ、ただ体を横たえて自分のためだけに脳みそをフル回転させている時間、あれが私にとっては最高の娯楽、生きる糧なのだ。

絵にしたら、どんなに綺麗だろうか。

ずーっと深夜1時の状態で過ごせたら、どんなに幸せだろうか。

 

でも夜は明けてしまう。

考えていたことも、残せず、朝には消え去ってしまう。

自分にとってはどんなに辛い思いでも、誰も気にしていないということだろうか。

何やってんだろうな。

ああああああああー

きつい

情報多い

 

取捨選択

捨捨捨

 

劣っているような気持ちになるよ

 

仕事のことを説明しようとしても出てこないよ。どっと疲れる。

 

人類が宇宙に行くのかについて想像を巡らせたいよ。

 

できる限り誰とも話さず育てて生きていきたい。

そうするためにはどうしたらいいかを考えよう。

 

惑わされるな。

 

人間は誰も責任を取ってはくれないのだから、自分の軸で生きよう。

 

今ばかりみて比較せず、人の過程に興味を持とう。

人との円滑な関わり方に関する本日の気づき

・声かけようかどうか悩むよりも、まずは声をかけることを決めて体を動かす。

 

・先輩に声をかけられたらまずは席を立ちお疲れ様です。

 

・相手の快不快、興味ある話題を振る。

 

・誰かに声かけられないか探してみる。

 

・単純接触効果。面白いこと話せる時とか相手にばっちりの話題がいけるときにだけ話すのではなく(そんな時は一生来ない)、適当に共通の話題でもいいのでとりま話す。話題がなければ、知ってることを敢えて知らないふりして聞くでもいい。

 

・一度顔見知りになった人には声をかけてみる。

 

・「面白い話してよ」とは「funnyな話を一人でしろ」という意味ではない。「何でもいいから場を持たせよ」という意味である。

このような時には自己開示が安牌だ。

思い立ってやろうとしていること。最近好きなもの。そういったこだわりや非日常に関する話題を提供すればいい。そうすれば人は興味を持ち話を掘り下げてくれる。結果、会話で5分ほど場が持ち、「面白い話してよ」のミッションは達成される。そのためにも経験しておくことが大事。

 

・話は閉じるのではなく膨らませる

飲み会があった。

 

相変わらず、うまくは話せなかった。

 

二次会まで行ってはみたものの、話の進むままに、皆が笑ったらワンテンポ遅れてそれっぽく笑うことを繰り返していた。

何か言わなければならない気がして、一言話してみるも、特に反応はなく「今話が勢いに乗っていいところだから、お前は出てくるな」と言われているような気がして張り付いた笑顔になって。

でもそんなことは思っていないのか、思っているのか分からない。

むしろ、「お前の発言はきちんと聞いているからな。でも、今は他に話したいことがあるから、また今度にしような。でも、発言してくれてありがとう。きちんと聞いてはいるからな」

なのか。

解釈次第である。

こんな振る舞いしかできないなら、ロボットと変わらなくないか?

いや、変わらなくはない。

僕の場合、おそらく笑顔は若干引き攣っていただろう。ロボットと違うところは、笑顔が軽く引き攣る程度に、自分の表情形成は自ずから行っているものではなく、他者の真似をして行っている形骸的なものにすぎないという、ある種の負い目があるというところか。

いずれにせよ、AIに真っ先に代替されるのは、二次会における僕の座席だろう。

 

なんだか他の人が俺を無視したような書き方をしてしまったが、実際のところ、皆なんだかんだ優しいのである。

いるものとしてカウントしてくれるし。話は振ってくれるし。(振り返せなくて申し訳ない。最適解を探してしまいワンテンポ、いや、ツーテンポスリーテンポと遅れてしまうのだ。)

僕を主体に話を盛り上げてくれたこともあった。(しかしそんな中で、何が最適解なんだろう、ああ、準備してこなかった、ああ、チャンスはあったのに、こんなことしか言えないなんて。持ちネタを作ろうとか、鉄板トークを作ろうとか、人生で何度思ったことだろう。ああ、情けない。なんて考えていた。バカ。)

 

特に、こんな僕にとりわけ目をかけてくれる物好きもいるものである。

同期の会話が上手い人に、メンターされていた。

複数人のテーブルで、一対一で話してくれて、ヒントや課題まで与えてくれて。

なんつーか、優しい。というか、物好き?

と同時に、弄ばれているんじゃないかという気持ちもある。

俺にキャラを演じさせて、楽しんでいるんじゃないかと。操り人形にする楽しさというか、自分の働きかけを契機として、他者の行動様式が変容する様を楽しむ。インセプション的な。

いや、そこまでする動機はないか。

考えすぎだ。

 

あと、事実の確認だが、どうやら僕は、周りからは典型的なINFPあるいはINFJだとは認識されているらしい。

そこに関しては自己認識と他己認識の齟齬はないようである。

 

思ったが、キャラを確立するというのは、一つの自己防衛の手段だろう。

自己防衛、いや、コミュニケーションの円滑化?

 

こういう思考をするときに常々思うことだが、人との関わりは難しい。

 

僕にとって、思考とは、抽象的な思考を暴走させることだ。

飛行機のように、長い時間をかけて加速して飛び立つ。

故に、長い長い、滑走路が必要なのだ。

しかし、会話はそうではない。

はなから加速できないどころか、加速しては止まり、飛び上がり、不規則なような、しかしどうやらそこにはルールというか、方向性のようなものがあるらしい。

1人で勝手に加速していく奴はいらない。

会話では、加速していく過程はいらないのだ。端的に、結果を分かりやすくぱぱっと伝えたり、ゴールを決める、と思ったらまた次のゴールを目指してパスをし合う。

バスケットボールのようなものか。

 

僕もできれば皆んなとバスケをしたいと思う。

でも、どうしても上手くやろうとして、ワンテンポ発信が遅れるのだ。

いや、ワンテンポ遅れるどころか、もうノーチャンスの泥沼である。

トラバサミに囚われたたぬきである。

 

何か変化が起きたら、不真面目そうな人に原因があると言ってイジってみる、そしてその人は返す。キャラを確立している人は強いと思う。

 

あとは、どんな話題にも一通り対応できる人。

 

あいつ相変わらず陰キャだなあ、とか、そんなふうに思われないことの優先順位は高くないはずなのに、それを不安に感じる自分が情けない。

何も話せないくせに、

 

話が進んでいく。そんな中で、

と、同時に、足りない頭で観察していた。

さっきも書いたけど、ああ、話題が一通り尽きてきて、おとなしくなってきた時に、何か予想外の変化が起きたら、ちょっとズレた人や不真面目な人に、「お前がやったのかと思った」といじってみるんだなとか、それに対して、何か面白い事を言うんだなと。あと、面白い動きをしていたら、例えツッコミして場を沸かすとか。

そういうことを考えていたと伝えたら、「真面目だな」と言われた。

これを真面目だと感じるのか。

ということは、君は不真面目なのか。

 

人との関わりには、正解も答えもない。

だが皆なぜか正解らしき振る舞いをとり、僕の行動は不正解と思われるらしい。

正解らしきものを掴み取りたい。

ルールブックがほしい。

経験が足りない。センスも足りない。なら、経験を積むしかないじゃないか。

今の自分の経験値は、下手すれば小学生にも劣る。

 

人生では決断をしなければならない局面が何度も訪れるが、どちらか片方を選び取るのは難しいと感じる。

両方を選んだ道を並行して進んで、最後にどちらかいい結果に終わった方を一つ選び取りたいと思う。

 

たらればの夢物語。

 

このような考えがポンポンと浮かんでくることが、情けない。

 

このブログがいつか同僚に見つかって、バレるのだろうか。回し読みとかされたりするんだろうか。(←自惚れすぎである。)

 

ああ、やめてほしいな。

俺たちの飲み会の話を、お前の自己表現のアイデアにするなとか、思われるかもな。

気持ち悪い(率直)とか思われるかもな。

会話を楽しんでおらず、自分の頭で自慰行為してばっかりじゃないかとか思われるかもと。

こうやって保険をかけている時点でキモい。批判される覚悟が足りないのである。

撃っていいのは、撃たれる覚悟のある者だけだ、なんて言葉を思い出して。

いや、撃っているつもりはない。ただ、書かずにはいられないのだ。こうでもしないと、生きていると思えないのだ。

飲み会で何も大したことを話せず(いや、話せてはいるのだ。でも納得のいくものではなかった。)、そして思考を睡眠の沼に溺れさせて、同じことで悩み続けて衰えていく、それは生きていても死んでいるのと一緒じゃないか。

 

まだ書ききれていないし、まとまりがないが、家に着いてしまうので、一旦これで公開する。

 

今感じてことは、どうせ朝を迎える前に夢と共に消えてしまうから。

消える前に、存在証明を残して、未来の自分を楽しませるのだ。

 

頑張れよー。未来の自分。

死ななきゃなんとかなるから。

それでいい

脳が疲れているのか、最近長い文章を書くのがしんどい。

就活の時よりも、文章の構成力も衰えてきているように思う。そんなものだろうか?

まぁ、いい。今はそれでいい。

5月だから、仕方ない。

漠然とした不安

漠然とした不安は、挙げていけばキリがない。

芥川龍之介は「漠然とした不安」で死んだ。なぜ?

漠然とした不安に耐えきれなかったのだろうか。

本当に「漠然とした不安」が理由で死んだのか?

それはどこに書いてある?

今調べたら、『或旧友へ送る手記』という作品の中で、「唯ぼんやりした不安」と記しているそうだ。読んでみよう。

 

この記事おもろ。

https://ddnavi.com/review/722118/a/

 

芥川龍之介ともあろうものが、ぼんやりとした不安という表現をする筈がなく、その真の理由は創作力の衰弱への不安と仮定すれば説明がつく。

興味深い説だ。

 

日本人の幸福感に与える影響力は、所得や学歴よりも「自己決定」ができるかどうかが大きいそうだ。

思い返せば、「自分で決断した」という意識が強い人は幸せそうだし、自分も、自分のやりたいことを決めてやっているときは活き活きしていると思う。反対に、何かを他人に行わされている時には、不安に感じる。それは客観的にそうであるときにもだが、主観的に、何か、自己の行為が、他者の行為に規定されていると感じる時もそうだ。たとえば、文章を書いているときに、この文章をどう書けば分かりやすいだろうか、と考える。そして、他人がどのように書いていただろうかと記憶を辿り、実際に他人の書いた文章がある場合にはそれを見て、真似してみようとする、しかしその瞬間に、ギプスをされたような違和感が生じる。

正直、気にしすぎだと思う。しかし、現にそう感じてしまうのだから仕方がない。

 

外国人ならどうなんだろうな。

 

漠然とした不安はあるが、目の前のことをやっていくしかないな。

今朝の夢 夢供養

夢を見た。

 

知らない人を説得する夢?

その人は、女性であることを理由に希望の学部に行けず、諦めざるを得なかったとか何とか。本当は花師?になりたかった?とか。(「はなし」と聞こえた)。

それに対して俺は、それでいいのか?今ここで投げ出せば、人生終わる時に、やりたいことできなかったと思って後悔しないのか?とか何とか言ってた気がする。

俺の呼びかけを聞いて、その人は、もう一度挑戦してみると決意する。

 

夢は不思議だ。

現実世界で経験したはずのない世界がそこには広がる。会ったはずのない人。自分自身でさえ、これまでしなかったような行動を持っている。

夢の中にいるときは、あんなに実感が湧いているのに、覚めた途端に、霞のように、すぐに記憶から薄れていってしまう。

 

しかし、忘れられない夢もある。

 

夢の話ついでに、今まで見た中で、まだ記憶に残っている夢をいくつか話そう。ここで話すことで、何かの供養になるかもしれない。

 

母が髪の毛カーになって襲ってくる夢(ホラー注意)

いや、恐ろしい夢だった。今でもあの姿が脳に焼きついている。

僕の母は髪の毛がそこそこ長いのだが、そんな母の髪の毛がもっともっと伸びて、爆発的に伸びて、母の体を覆い尽くす。そして母の頭を覆い尽くして、髪の毛が車のようになる。髪の毛は車のボディ、そして爆速で回転するタイヤになる。そして母の顔だけ。そんな髪の毛カーになった母が、僕に向かって爆速で走って襲ってくるという夢だった。

その夢は、現実味のある夢というよりは、どちらかといえば、アニメで描かれたような見た目の夢だったと思う。

当時はクレヨンしんちゃんにハマっていて、よく見ていたのだ。僕がまだ幼かった当時は、Youtubeはまだそこそこ無法地帯であり、クレヨンしんちゃんサザエさん、あたしんちなどの日常アニメが大量にアップロードされていたのだ。「サザエさんno.1245」みたいな感じのタイトルで。僕もその恩恵に預かっていたのだが、今となっては時効だろう。

そのクレヨンしんちゃんの中には、ホラー回が時々あって、それが異様に怖かったのだ。

風間君が幼稚園に行ったら、誰もいなくて、真っ暗。幼稚園の皆が石になって天井からぶら下がっていた、みたいな。

その影響があって、あんな夢を生んでしまったかもしれない。

別に母との関係は悪くない。

 

話それます。

おもしろいと感じる映画と面白くないと感じる映画の違いは、登場人物がその場で力の限りを尽くし、困難を乗り越えようとするのか、あるいはあり得ないような愚かな行動をして事態を悪化させるかにあると思う。前者の場合は、キャラクターは活きているのに対して、キャラクターは、演出家にとって都合のいい駒でしかない。思い通りにならない存在だからこそ、活きて魅力のある存在になる。

 

用水路に落ちる夢。

用水路に落ちる夢。僕の地元には用水路がやたらと多い。その用水路の大半は剥き出しの状態で、近くで歩いていて足を滑らそうものなら簡単に落ちてしまう。台風で水が溢れた日には、地面と用水路の見分けがつかず危険だ。

そんな用水路に、背中から落下する夢を見た。たかだか2メートル弱の用水路に落ちる瞬間が、無限のバンジージャンプのように感じたものだ。

 

色々描きたかったが、時間がないので今日はこの辺で。せっかく早起きしてオフィスに来たのに、やることが金にならないブログとは。何をしているのだ。

朝なにをするかは決めておいた方がいいな。

だがまぁ、そんな時間も、悪くないか。

 

精神が充実しているからこそ頑張れる。

じぶんにとって大事なことを見失わず、今日も一つ一つ、頑張ろう。