不器用 罵倒

人と話すたびに、自分がいかに浅い人間かを実感する。

 

否、浅いと思おうとしているだけなのか?現に浅いのか?主観と客観の確認はできていない。

 

人と話すときのコツは、相手の好きなことを話そうとすること?

相手の話したいこと、興味のあることをはなそうとすること?

難しい。

 

相変わらずコミュ障全開である。

 

しかし、恐れているだけでは前に進めないのもまた事実だ。

楽しむことが大事だ。

 

会話が楽しいと思っているときには、相手に楽しませてもらっている。

 

考えが錯綜する。

自分のアイデアなのか人の意見なのか分からなくなる。

自分がオリジナリティのない、ツギハギだらけのパッチワーク人間に思えてくる。

 

無力だ。

またゼロからの始まりだ。

 

積み重なっていない。

 

いや、積み重なってはいるはずなのだが、気持ちの上ではゼロ`からのスタートだ。

 

心がしんどい。

 

不安は表に出さず、努力は人に見せず、

やるんだ。淡々と。

淡々と、やるべきことをやるだけだ。

 

それでいいのか?

常に不安がつきまとう。

 

いやだ、いやだ。

確固たる信念を持って突き進めない。一歩進めば、あり得たかもしれない自分が潰えたことに心が苛まれる。

 

今の自分の延長戦上としての未来を見るべきなのに、存在しない別の未来に心を囚われている。

なんて惨めな心持ちだろう。

そんなのやめて仕舞えばいい。

 

なぜそうなるのだろうか。

iPhoneの画面が割れているからだろうか?

日々目が悪くなっていくからか?

 

他人にできることが、自分にできないからだろうか?

他人にできることばかり見るのは、昔からの悪い癖だ。

自分にできて他人にできないこともあるのに。

なぜそれを見ないのか。

 

人のことばかり気にしていても幸せにはなれないぞ。

自分のできることを伸ばすべきなんだ。

だけど、他人にも興味を持ってうまく接しなければならない、難しいな。

そんなに器用じゃない。

 

皆そうなのか?

器用なふりをして、内面では、自分の不器用さと葛藤しながら生きているのか?

それともそれは、そうであってほしいと願う、俺の妄想にすぎないのか?

 

自分の苦しみを、自分だけの物だと思いたい愚かな人間なのかもしれない。

 

今日はよくない文章だな。

 

失敗を恐れて、ただ、縮こまっている人間の書く文章だ。

他人のできることばかり羨んで、自分に自信がない。

他人とうまくやろうとしすぎるあまり、自分の心を他人の心に型どって、好きなものを見失ってしまった、そういう人間の書く文章だ。

 

電車で誰も隣に座ってくれないと、自分が迫害されているように感じる人間の書く文章だ。

隣に座ってもらえるような努力はしていないくせに。

 

気持ちの悪い奴だな。

倒してやる。

 

現状が嫌なら、変えてみろよ。

悩むのは行動してからにしろよ。

他人の動きに流されているだけのくせに、ウジウジ悩んでんじゃねえよ。

 

自分なりに頑張って決断して、それがうまくいかなくて後悔して、行動することが怖くなってる。

 

あー、糞まみれのハンバーガーってこういうことか。

 

それでも生きていたいと思うほどいいことってあるのかな。

 

金持ちになりたいな。こういうこと書くたびに思う。

惨めに死にたくない。

愛されて死にたい。

他人に振り回されたくないけど、他人から愛されたい。

都合がいいことばかり考えている。

 

自分の中を覗いてみたら、クソまみれの空洞だったというだけの話。

 

やることやったら、少しは自信がつくのだろうか。

 

いつも他人への自己開示を恐れている。

 

なにも変っちゃいない。

簡単には変わらないのか、変わったところを認識していないのか。

 

不器用だなー。

眠れない夜の中で

眠れないのでスマホでポチポチ。

 

いや〜なんかこのブログ、思ってたよりアクセス数が伸びてまして、いや、もちろんそんな何万とかはいってないですが、えっ、こんなに、って感じです。就活の記事が人気なんでしょうかね。

 

正直エゴサとかもしちゃってまして。なんか悪いこと書かれてないかなと、心臓バクバクです。

でも何もそれらしきコメントは見当たりませんでした。残念なような、嬉しいような。

もしこのブログ読んでる方で可能な方いたら、コメントでもTwitterでもなんでもいいので、何か感想書いてくれたら嬉しいですね。いや、書かなくてもいいですよ。どっちでもいいんてす。無理はしなくていいんです。

でも何か読んでる方が何を感じたのかなぁとか、どういう部分をいいと感じてくれたのかなぁとか、少しでも知りたいなと思ったからです。

でも、たとえコメントはないとしても、読んでくれて、何かを感じてくれて、少しでも前向きに生きるきっかけになれば、いや、たとえ前向きでなくても、生きづらいけどなんとか生きてみようと思えるきっかけになっていれば、それだけでとても嬉しいです。

意外とそんなこともないのかな。きめーとか、悪意を持って読んでたりもするんだろうか。それはそれで、その人が何かの糧にできるのならそれでいいと思います。

 

いや〜、4月、絶賛就活シーズンですね。

ほんと大変だったなぁ…(遠い目)

就活期のスケジュール見返したら、1日3件〜4件くらい予定が詰まっていて、それを毎日こなしてたんだから、過去の自分凄かったなと思う。ほんとにイカれてたなと思う。

 

と、まぁそれは余談として、アクセス数が伸びたことをきっかけに過去の記事を見返してたわけですが、そこで感じたのは………「過去の自分文章力えぐいわ。」ということでした。いやほんとえぐすぎて笑うしかない。bucket listとか傑作。

自画自賛してても仕方ないんですけどね。

 

なんつーか夜は寂しいですね。誰かに会いたくなる。あってもまともに会話できないんですけどね(コラッ)

 

いや明日6時半起きだからそろそろ寝ないとまずいんだけどねー。

 

寝るかぁ。

 

非生産的だわ。

はぁ、自分の口からこんな言葉が出てくるなんてな。

悲しいような嬉しいような。

 

すみません、こんな毒にも薬にもならないことばかりでは皆様を退屈させてしまうとおもいますので、ひとつだけ気づきを共有します。

このブログをご覧いただいている方の中には、INFPと診断された方々、とりわけその中でも就活をしめいて、辛い思いをされている方が一定数いらっしゃると存じますので。そのような方に向けて。

 

まず、貴方が就活で辛い思いをされているのは、貴方が悪いからではありません。

貴方の人間的な特性と、就職活動というイベントに求められる適性が、アンマッチだからです。

 

そんな辛い日々の中で、INFPはどうすれば心の平穏を保っていられるでしょうか。

それには2つの方法があるかと思います。1つは、INFPの内面的な充実を図る方法。もう1つは、たとえ辛くても、就活でやるべきことを、死なない程度にやってみること。

 

前者の、心の平穏を保つコツは、新しいことを取り入れることだと思います。

僕だと例えば、道端に咲いている花の名前を調べたりとか。

見た目はタンポポみたいな花でも、実は沢山種類があって、それぞれ名前が違うんです。今日僕が見つけたのは、オニノゲシという花でした。花の見た目はタンポポに似てますが、茎が長く1mくらいあり、葉っぱがギザギザしています。葉っぱはおひたしにして食べられるそうです。

 

そういう気づきが一つあるだけでも、なんだか、自分がまだ生きていていいんだと思える気がするんです。もう少しだけ知ってみようかな、とか。

でも、それを他者に無遠慮に共有することは、あんまり良くないみたいです。

自己と他者の興味は必ずしも一致する訳ではないですから。

まぁ根本的には伝え方の問題ですけどね。それは初級編レベル2。

 

もう一つの、やってみる、ということ。

これは何にしても、えいやっと、頑張れるところまでやってみることです。

個人差はあれど、実際、就活は誰しも辛いです。でも皆それぞれに頑張っています。

やってみれば、もがいてみれば、それなりになんらかの結果は返ってきます。それは思わしくないこともあるし、でも、間違いを犯すなら早いうちだということです。僕も初めのうちは、「モノで人を幸せにしたい!」と言って、メーカー業界にこだわっていました。しかし、今思えば、待遇は悪いし、伝統的な日本企業で、コミュニケーションで日々ストレスが溜まりそうな環境だしで、自分が働く環境としてはありえねーなと思ってます。それはでも、実際に就職活動をして、メーカーを受けてみて、それがダメで別の業界に軌道修正したから解ったことでした。

なのでまぁ何が言いたいかというと、とにかくやってみるのが大事ってことです。

行けばわかるさ、バカヤロー、ってことです。

 

すみません、流石に眠いのでそろそろ寝ます。

眠いのでところどころ言葉を適当に使ってます。こんな文章を半永久的に世に出せてしまうなんて、匿名ってありがたいなあ。

 

おやすみなさい。いい夢を。

「底辺職ランキング」について思うこと

少し前のことだが、「底辺職ランキング」なるネット記事(以下、「底辺職ランキング」)が物議を醸した。

それは、ある就活情報サイトが公開した記事で、「底辺職」に該当する職業を列挙していた。そして、このような「底辺職」につかないために就活を頑張ろうと呼びかけ、自社のサービスに引き込むような内容だったと記憶している。

 

今の日本国において、表現の自由が保障されていることは周知の承知だが、それでも私は、いかなる目的であれ、正当な業務として存在する職業を、他人が貶めてはならないと考える。

社会に貢献する重要な職業、ましてやその業務内容は違法行為でもなんでもないものを見下し貶めるということは、整然と整えられた茶の間に土足で踏み入り、足蹴にして荒らしまわるような野蛮な行為である。その悪行を被り、誇りを踏み躙られる者の気持ちは、筆舌に尽くし難い。

 

しかしながら、同時に、違和感を覚えるのは、底辺職ランキングに批判的な意見を呈する人々の中に、「職業に貴賎なし」という言葉を用いる人々がいたこと______より正確に言えば、その言葉を使って、職業に貴賎はないのだから、底辺職なるものも存在しないという主張をする人々がいること______だ。

 

なぜならば、資本主義社会において、待遇の格差や労働環境などの面において、職業間に一定の優劣が生じていることもまた事実だからである。その優劣の序列において、上層と底辺が存在するとすれば、その記事に列挙されたような職業が一般的に底辺に位置することは私には事実であるように思えた。

 

誤解がないように申し上げれば、それでも、「職業に貴賎なし」はやはり真実であると私は思う。明治時代に士農工商身分制度が(建前上は)廃止され、生まれ育ちに関係なく職業を選択できるようになった(建前上は)ことが憲法で保障されている現在、職業それ自体は貴賎のないニュートラルなものだ。職業に貴賎があるならば、選択の自由も存在しないはずである。職業に貴賎がないことを前提としてこそ、職業選択の自由が成り立つはずだ。「職業選択の自由について誤った記述をしている」と法学徒から手痛い指摘を受けることを案じて戦々恐々としているが、職業選択の自由について法律論を展開することは本記事の目的ではない。あくまでも私は個人的にこう思うというスタンスを示しているだけなので、大切な法律用語を拝借してしまったことはご容赦願いたい。そもそも、優秀な法学徒は法学エリートの道からこぼれ落ちた私のような者の記事を読みにはこないだろうが。

とにかく、一方の職業は尊くて、もう一方の職業は卑しいということはないはずだ。

 

「底辺職」とされた職業は、どれも社会にとって必要不可欠な存在である

土木・建設作業員がいなければ、この世のあらゆる建物やインフラが存在しない。雨風を凌ぐ家もないし、家族との思い出の詰まったマイホームだって存在しない。立派な建築物だって、線路や電車だって存在しないから、どこにいくにも荒れた地面を歩いていくしかない。

ごみ収集スタッフがいなければ、ゴミは放置されて悪臭を放つだろう。ゴミを運搬する人がいないので、各人が処理することになる。燃やして処理するとなれば、失火による火災も頻発するだろうし、ゴミの焼ける匂いがそこらじゅうに漂って、街は快適さを失いだろう。ゴミを不当に投棄する人も増えて、衛生が悪化するだろう。コレラのような疫病が発生する可能性も高い。

保育士がいなければ、子を持つ親の多く(とりわけ女性)はその能力を発揮する機会を失い、家庭の用事に束縛されることとなるだろう。その結果、生きがいを失うこともあるだろうし、配偶者と喧嘩が絶えないかもしれない。

 

このように、どれも社会に大いに貢献している。

では、底辺職ランキングは、このような職業に就く人々を賛美する目的で書かれたものだろうか。いいや、違うだろう。

底辺職ランキングの目的は、そのタイトルの文言の過激さを以て特定の職業に対する悪意や偏見を増幅させ、リンクをクリックさせてアクセス数を稼ぐことにあることが明白である。

どんな理由があれ、他者の職業を貶めることは、全くもって言語道断である。

 

「底辺職ランキングだって、冒頭で底辺職は立派だと断っているじゃないか」という反論が飛んできそうではある(いや、多分そんな反論をする人はいないだろう、私が勝手に仮想敵を作っているだけだ)が、一応これに反論しておく。

そもそも、どの職業も社会を成り立たせているものである。底辺職だけが社会を支えているわけではない。ゆえに、記事の冒頭の底辺職が社会を支えているからリスペクトを送ろうという趣旨の文言は、特定の職業の人々を「底辺職」と称して貶めることのエクスキューズとしては機能していない

 

先にも述べたように、資本主義社会において、職業間に優劣がついていることは事実である。

大切なことは、資本主義の環境下で劣位に位置する職業に従事する人々であっても日々の衣食住に事欠くことがないように、豊かな社会を創っていくことだと思う。

 

衣食足りて礼節を知る。

お金を稼ぐために他者を貶めなければならないような職業があるとすれば、そのような仕事こそ、真の意味での「底辺職」なのではないだろうか。

 

いや、そもそも職業自体は悪くない。職業の性質どうこうが問題ではないのだ。

結局は、人間性の問題なのだ

どんな目的であれ、人を貶めてはならない。これに尽きるのだ。

 

誠に勝手ながら、今ここで「底辺職」に代わって「底辺人間」を定義させてもらう。

底辺人間[名]業務に従事する中で、利得を得ることなどを目的として、他者を貶めたり、不当な行為を行ったりする人間のこと。

 

このような人間を、私は、心の底から軽蔑する。

 

そして、あらゆる職業に従事する人々を、私は、心の底から尊敬する

 

P.S.

この記事を書くようになったきっかけは、妻に(あ、先日結婚しました。ご報告。)「底辺職がどうとかっていうけどさー、資本主義社会において待遇格差はあるし、底辺は実在するじゃん」と話したことです。あれから自分の中で思考してみて、やっぱ資本主義において待遇差は確かに存在するけど、その待遇差における「底辺」が存在するという客観的事実と、特定の職業を「底辺」と呼んで貶める主観的行為は別の問題だよなと反省したからです。

初稿では、他者を貶める行為が業務内容や利益の仕組みに内在する仕事として「底辺職」を再定義して記事を締め括った(そして、不当な輩をバッサーッと切り付ける俺様カッケエ!と悦に入った)のですが、記事を書き進めるうちに、職業の性質がどうこうというより個々人の人間性の問題じゃんと気づいて書き直した。底辺職を再定義する方が大鉈を振るうようでカッコ良くはあるのですが、結局のところ問題は、職業の性質どうこうよりも、個々人がどう行動するかという人間性にあると思い、結論部分を書き直しました。

記事の内容が一貫性を欠いているように思われるかもしれませんが、ご容赦ください。私自身、記事を書く中で「書き始めた時点ではああ思っていたけれど、確かに違う考えもできるな」と思考が深まったりして、書き始めた時点と書き終えた時点ではちょっとした別人なのです。

あくまでも私の思考の整理と覚書の目的で記しているものですので、悪しからず。

 

文体も「〜はずだ。」とか「言語道断である。」とか評論家みたいな感じになってて、「エクスキューズ」なんてカタカナ言葉まで使っちゃって、キャー、なんて恥ずかしい。未来の自分はこの記事を思い返して、ベッドにうずくまり足をジタバタさせるでしょう。

 

最後まで読んでくれてありがとうございました!

全ての読者の方々を愛してます!

無題

人のいう言葉を鵜呑みにして、自分の言葉であるかのように喋ったら、試験に合格するかもしれないけれど、いい●●●●●にはなれない。

あらゆることに疑問を持ち、まずは自分の頭で考えて、自分の言葉で、自分の疑問を持つ。それが予習。事前に暗記してくることではない。

それを履き違えている教師のなんと多いことか。

 

人間は「なぜ?」を起点に進化してきた。

なぜ太陽は登って、沈んでを繰り返すのか?

なぜ人は生きるのか?

なぜ暑くなったり寒くなったりするんだろうか?

なぜ火がつくのか?

なぜ肌の色が違うのか?

この海の向こうには、なにがあるだろう?

 

そうして、人は新たなものを生み出し、進化してきた。

 

生まれたばかりの人間は、そんな「なぜ」の塊だ。

進化できる、無限の可能性がある。

 

スマートフォンで他人のしたことを見たり、起きたことを見たりする。そうして。自分の頭で考えるよりも前に、関係ない情報や他人の意見を入れてしてしまう。

ただでさえ仕事が忙しく、家に帰って疲れ果てているのに。

 

でもそれも悪くない。生きていて、この社会を成り立てせているだけで偉いから。

 

今日、51歳の引きこもりの女性のドキュメンタリーを見た。

51歳の女性。19歳のときから引きこもりになった。高校を卒業後、パートに出たが、簡単なことしかできず、クビにされた。それ以来、32年間引きこもりになった。

62歳の兄も引きこもりだ。彼女と同じく、もう数十年間引きこもって暮らしている。

そんな二人の面倒をみていたのは、91歳の父だった。

生活は月々19万円の父の年金が頼り。行政支援は受けていなかった。兄はパチンコに月4万円、タバコに月2万円を費やしている。

 

社会を成り立たせていないからダメだとか、そういうことが言いたいんじゃない。

ただ、ふと思い出した。

誰よりも自分を責めているのは、きっとあの二人のはずだ。そう思った。

余談なので終わる。

 

なにはともあれ、歳をとってしまうにつれて「なぜ?」の素質は消え去ってしまったのだろうのか?

答えは否。

眠っているだけ。

誰だって、眠っている心を呼び起こすことができるはずだ。

 

世の中には、変えられないものと変えられるものとがある。

変えられないものは、過去に起きた事実。これは変えられない。

他方、変えられるもの。過去の事実への解釈。そして、未来に起きる出来事。

(哲学的な話は抜きにして)この2つは、勇気があれば変えることができる。

何にでもなれるって話。

 

まぁ才能の差はあるけどね。

 

めでたしめでたし。

余計なネガティブなアイデアばかりが浮かぶのでここに吐き捨てていきます。

 

疲れてきた。山とか行きたい。

就活。

 

どうせ落ちるのでは?と思って逃げようとしてしまう。

だめだ逃げちゃダメだ。

 

逃げちゃダメなのに心と体が勝手に逃げる。

 

アファーメーション。

 

逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。

 

アファーメーションは有効なんだろうか。

 

シンジくんは逃げちゃダメだと言い聞かせて立ち向かった結果、周りに迷惑をかけてしまった。

迷惑をかけて塞ぎ込む。

 

逃げる自分を克服する

挑戦する

失敗する

失敗したという現実から目を背けたくなるが、直視して次はどうすればいいか考える

 

これだけのことが難しいんだよな。

初めの「逃げる自分を克服する」だけでもハードなんに、挑戦して失敗したら心が折れてしまう。

 

人生の目標。好きな人と幸せに暮らしたい。

やりたいこと。大○を吸ってみたい。沖縄に行きたい。古事記を読み切って、そこから何かを学んでみたい。寺院で修行してみたい。合気道を身につけたい。茶道とか。座禅とか。東洋的な思想や精神に憧れがある。講演か何かをして、自分の言葉で誰かの人生をよくしてみたい。大きなバイクを乗り回してみたい。彼女と二人でバイクに乗って、海沿いの道を風を切りながら走りたい。夕日が見えるといいな。

 

どれか1つは実現できるだろうか。

それまでは、それを実現するにはどうすればいいかを考えてこなかった。

 

でも案外簡単に実現できるのかもしれない。

やるべきことを把握して、やるべきことをリストアップして、行動する。それだけだ。

 

やりたいことがたくさん夢想してしまうINFPだからこそ、たくさん幅が広がる可能性がある。問題は、それを実行するには何が必要なのか考えて、実行すること。

ここさえ越えれば怖くない。

 

遠く眺めていただけの景色は、実は結構近くて、足を踏み出していけばすぐに届くかもしれない。

夢想していただけではみられない経験ができるかもしれない。

そこにたどり着いた人たちと知り合って、いろいろな話ができるかもしれない。

そうしたら、新しい景色を知れるかもしれない。

 

書いていてなんだか泣きそうになってきた。

なんだか自分がすごく、なんだろう、難しい。

 

慈しみ、的な感情なのかな。

君はそこにとどまっていなくていいんだよ。踏み出してもいいんだよ。的なことを伝えてあげようとしている感じ。はず。

 

こんな当たり前のはずのことが今までできていなかった自分が悔しいし、でもそうすれば新しい経験ができるかもしれないことがワクワクするし、でも結局何もできないかもしれないことが不安だし、でも何もせずこのまま昔のまま何も変えられず過ごすのはもっと嫌だし。

 

勇気がほしい。

 

神よ、変えられないものを静謐に受け入れる力を与えてください。

変えるべきものを変える勇気を

そして、変えられないものと変えるべきものとを区別する賢さを与えてください。

 

唱えるだけでは勇気は与えてくれない。

自分でやるんだ。

 

勇気をもらうだけではダメだ。自分で動くんだ。

新しく得られるものを楽しむ自分であれ。

夢想するだけではなく、そこにたどり着くために歩み続ける自分であれ。

目標を見失わず、真っ直ぐに見据え続ける目を持て。

最終面接

最終面接(いろんな意味で)終わったあああああああ

 

はい。なんかもう散々でした。

 

いつもの自己評価が低いだけかもしれんけど。

 

そうでもない気がする。分からん。

 

でも落ちているなら落ちているで納得できる結果でした。

余計な希望を持つのはやめましょう。

はい、多分落ちてると思います。

 

ただ、ネガティブになっているわけではなく、今の自分に足りないものにたくさん気づけた、そんな状況です。

 

何が足りないかを書き連ねたいと思います。

 

自分で前提を決めて考える力

これは圧倒的に足りていないと自覚しました。どういう力かというと、答えのない物事に対して、自分で前提や目的を定めて、必要なものを考えたり、新たに提案したりする力。これは非常に欠けている。

対照的に、試験や受験勉強のように、答えのあることに対して、選択肢の中から正解を選んだり、頭の中にある正解をアウトプットするのはとても得意なんです。

でも、答えのないことに対して、自分で前提条件や必要なものを仮定して、それに対して、選択肢が与えられていない状況で自分で選択肢を作って、それぞれの選択肢を吟味して結論を出していく、そういう力が欠けていると思いました。

それを実感したのは、面接でケーススタディをやったときでした。

詳しくは話せませんが、職場にある制度を導入した事例についての設問で、自分は「これと似た事例、行動経済学の本で読んだことある!」ということに気づいた瞬間に、その話をすることばかり考えてしまい、その制度を行動経済学の観点から分析するという暴挙に出てしまいました。その制度のメリット・デメリットを分析し、新たな制度を提案して比較拳頭するというのが妥当な道筋だと思うのですが、自分は、頭の中にある事実を相手に伝えようとするあまり、そのケースで相手が求めているものや、新しいことを提案することができていなかった。そう思いました。

「正解である事実を伝えれば、うまくいく。」僕の脳味噌は、そういう思考の誤謬を抱えているのだと思います。

 

自分は目の前の問題に対して「とりあえず与えられた条件の中で、頭の中にある知識や事実を提示して、それっぽく現状を追認しつつ新たな情報を追加すればなんとかなる」そういう姿勢で臨んでしまっていたことに気づきました。そういう姿勢を学校教育で植え付けられてしまったのだと思います。だから今も受験勉強に抵抗がなく実行できる。でも、そういう人は優秀なオペレーターにはなるかもしれないけれど、そういう姿勢でい続ける人からは、新たなビジネスは生まれてこないと思います。

どちらがいい悪いではなく、一度きりの人生、自分は新たなビジネスを生んでみたいなと思いました。

 

もっと聡い人になりたいなぁ。

 

っと、それだけじゃだめですね。

そもそも「聡い」人がなんなのかを定義して、そういう人になるためには自分に何が欠けていて、何を、どの程度実行すればいいのかを決めて実行しましょう!(ああめんどくせえええ・・・・)

 

②アウトプットする力(実行するべきことを考えて実践する力)

新しいことをやってみるとか、頭の中で考えていることを形に移す力が弱い。

頭のなかで「あれやりたいな」「ああなりたいな」「こうなりたいな」と考えているばかりのことが多いです。

自分がなりたい姿になるためには、何をすればいいんだろう?とか、そうして考えたことを、実行に移して継続する。そういう経験が少ないし、そうしたことを実行することに考えが及んでいなかったです。

 

もう少し噛み砕いて説明すると、

頭の中でぼんやりと「ああなりたいなあ」「こうなりたいなあ」

じゃあ何をすればいいの?

それをどれくらいのスパンで実行するの?

じゃあ実行しよ?

 

③伝える力

自分は物事をイメージや抽象的な関係性で記憶することは得意で、それは概ね正しく捉えていることが多いのですが、それを相手にわかるように伝えることが苦手です。

どうしても抽象的な表現を使ってしまい、相手に具体的にイメージさせることができていないということです。

傲慢な言い方ですが、おそらく理解力は高いし、脳の処理能力という意味でのスペックは高いんだと思います。

ただ惜しむべくは、その高いスペックを与えられた情報のみを吸収することに使ってしまっていることだと思いました。

これからは、与えられた情報だけでなく、

・与えられた情報以外に得るべき情報はないか

・現状のモデルを整理できないか

・なぜ現状のモデルになっているのか

・新たなモデルを導入できないか

・新たなモデルのメリット・デメリットは何か

・どのような反対意見が予測されるか

・どう改善できるか

そうしたことを実践していきます。

 

なんか長くなりそうなのでいったん切り上げますが、今後のtodoを整理します。

 

これまでの自分が培ってきた力

・前提条件の中で効率的に結果を出す力

・正解があり、選択肢が与えられた状況で、正解を選ぶ力

・与えられた事実を正確に理解する力

 

伸ばすべき力

・自ら前提を定めて考える力。

・与えられた事実に対して解釈を加えたり、新たな提案を行ったり、それらを吟味したりする。

・実行する力。

 

todo

スマホからのインプットを減らす(youtube,インスタ,)ジャンクな情報に脳を占領させない。

・身の回りの物事や、社会の事柄、ビジネスについて、どうしてそのような仕組みになっているのか、改善すべき点はないか、自分だったらどのような新たな提案を行うか、その提案に対してどのような反対意見が言われるだろうか、考えてみる。

・口先だけで「ああなりたい」「こうあるべき」というだけで終わるのではなく、どうなりたいかを定義づけ、そうなるためには何が必要かを決め、実行する。

・「覚える」フェーズと「考える」フェーズを明確に区別すること。

・自分の「スタイル」を持つこと。あれがよくてこれがよくないとかの判断基準。

 

こんなもんっすかね〜。

でぃーーーーん。