「社会人」について

高校などを卒業すると、「社会人」という称号を授けられ、会社に勤めることとなる。

この「社会人」という言葉は、どのようにして生まれ、どのようにして我々に浸透してきたのだろうか。

それを調べてみたところ、早速、ちょうどいいブログが見つかった。

https://tukinoha.hatenablog.com/entry/20110422/p1

どうやら、「社会人」という言葉は大正時代頃に使われ始めたらしいが、「非階級的(反マルクス主義的な)な」や「国際的な人間」といった意味で使われており、「職業を持っている人」のような意味合いでは用いられていなかったらしい。

現代のような用法で用いられるようになったのは、戦後の早い時期であるようだ。

 

どうやら、世間一般の凡人たちに対して、一括で線路を引いて区別し、一斉に線路に乗せて動かす際に、立派な「社会人」として労働することは良いことであると、美化し、洗脳するのに都合がよかったのかもしれない。

 

お察しかもしれないが、私は「社会人」という言葉は嫌いである。

何が嫌いかと言えば、その「社会人」という言葉から滲み出る、幼稚な自己肯定と排他性である。

 

いわゆる「社会人」と呼ばれる存在は、所詮、金のために会社と契約して時間を切り売りして、資本家に余剰利益を「搾取」されている労働者でしかないというのに(これは見下しではない。事実認識である。「社会人」とその他に優劣はないということが言いたい。)、あたかもそれが立派な存在であるかのような含みを持っている。思考停止してカタログギフトを選ぶかのように就職しているにすぎないくせに、何をつまらない言葉を使って、くだらない自己肯定をしているのだろうか。

また、このような幼稚な自己肯定の裏返しとして、「社会人」という言葉は、社会人」ではない存在は「社会人」よりも劣っているという、排他性と差別を含んで用いられることがある。例えば、学生に対して、会社員風情が

「社会人になってみないと分からないよ」だのと、「社会人」区別し、見下すような言動を見せることがある。このような行いは、実に唾棄すべき振る舞いであると思っている。

知的レベルは大して変わらないし、親に養われてした存在が、会社に養われるようになっただけの話である。スマホゲーでもして、やめたい、やめたいと死んだ顔をして通勤しているのである。高校生のようないわゆる「非社会人」であろうと、社会人がやっていることくらいはできる能力はある。

 

最近、金を稼ぐことばかり考えていて疲れた。少しいい気晴らしになった。