斜に構えていたので、メタ認知して類型化してみた

スポーツ観戦を楽しむ気持ちがわからない。

なんというか、一定のルールの下でランダムな駒を配置して結果を出力しているだけで、迷路の中でダンゴムシを這わせる対照実験と違わないのでは?

むしろダンゴムシの方が、ダンゴムシの生態についての法則性が発見できるだけマシかもしれない。

結局のところ、観戦する「スポーツ」を楽しんでいるのではなく、スポーツを「観戦」する行為そのものを楽しんでいるのではないだろうか。

声を出して応援し、売り子からビールを買い、勝っただの負けただの、ゴールが決まっただので盛り上がり、叫んだり、そう、叫ぶ瞬間が分かりやすく決まっている。その瞬間、同じ行為を行うことで、自己の感性が他者との関係において正当化される。

 

いや、あくまで自分はそう思うというだけの話で、きっと自分もそうなのだ。

通勤の時間をかけて本を読んだって、現実は変わりはしないし、

実務の足しにもならないことを論文まで調べて勝手に理論を組み立てて納得したって、それで仕事が早くなるわけじゃないし、

2chまとめサイトを閲覧することは何の足しにもならない、(←これは自分でも心の底からそう思う。)

そんなふうに、自分が楽しくてやってることだって、他の誰かから見れば意味がないことだと思われるんだろう。

 

ここまで書いて思ったが、スポーツそれ自体もきっと非常に魅力的なのではないだろうか。それはおそらく、個別具体的なストーリーがあるという点においてだ。

競馬にハマっていた時期があった。数多のヲタクどもと同じく、ウマ娘のアプリゲームを始めてから実際の競馬へもハマっていったタチであった。

競馬も抽象化してみればルールのもとで馬を走らせるだけのスポーツだ。

しかしそこには、数多もの人たちが勝利へとかける想いがあり、

たかか一つのレースだが、これまで紡がれてきた幾重もの歴史の上に、また一つ新たな歴史が積み重なる瞬間なのだ。

 

(20230929追記)

スポーツを観戦するということは、その歴史の積み重ねの瞬間を構成する一員になるということであり、その瞬間の語り部になるということなのだ。自己が歴史を変革する1ページとなり、それを後世に語り継ぐことができる、そのような営みに魅力を感じぬものがいようか。少々大袈裟な表現だと思われるかもしれないが、実際に観戦するということは、そのような臨場感をしばしば伴うものであると私は思う。

(202309追記ここまで)

 

だがしかしそこまで意識しているだろうか。いや、明言する必要がないほど当然のことなのだろうか。

 

二転三転して話を重ねてきたが、自分がなにをしたいのか分かってきた。

結局のところ、休みの日に外に出るのが億劫で、その億劫さの原因をスポーツのつまらなさに求めたかっただけなのだろう。

 

しかしもう恐れる必要はなかろう。

私は私の認知に介入して思考を強いるものが何であったのか知りたかったのだ。

 

スポーツそれ自体がつまらぬのではない、私のサリエンスを恐る気持ち、刺激、特に人とのコミュニケーションという法則のない刺激が私の心的態度に見直しを迫る、その不快さを恐れているだけなのだ。

原因がハッキリしたので悩む気が失せた。

根拠のある悩みであればそれでいい。

 

斜に構えて、これって面白くなくないか?とか言っているとき、もしそこに自分が参加しようとしているのであれば、そこには、何らかのサリエンスを恐れる気持ちを、別の対象それ自体の有する欠陥に帰そうとする気持ちがあるのではないかと思った。

全てがそうではなく、あくまで私の思考プロセスの一類系として。

かなりわかりにくい書き方をしているが、自分のための速記メモなので今はいいや。

 

行ってきまーす。